インドの民衆と原発―フクシマからのインパクト
Democracy and Nuclear Power in India--The Impact from Fukushima
日 時:2013年6月29日 土曜日18時~20時
場 所:文京シビックセンター(文京区役所)区民会議室3階(障害者会館)会議室A

報告者:
ケイト・ストロネル(デリー・ジャワハーラルネールー大学(JNU) 博士課程)
Caitlin Stronell (Research Scholar, Jawaharlal Nehru University, Delhi)
使用言語:日本語・英語

主 催:平和教育地球キャンペーン http://gcpej.jimdo.com/

当日は20名ほどの参加者があった。以下、報告です。

ンドの核開発計画とナショナリズムそして科学エリート主義の背景について、インドで最初の原発であるタラプールと、その建設のために移住をした人びとの現在の暮らし、そして現在インドの原子力政策について、福島第一原子力発電所の事故がどのような影響をあたえたか、クダンクラムでの原発に反対する民衆について報告することが骨子とのこと。

 インドにおける原子力開発の歴史は古い。1954年に原子力省が設置された。タラプールで1969年に最初の原発を稼働させている。

 科学そして、原子力は「神」の力であるかのように思われているふしもある。ガンジーのチャルカいとぐるまとともにある写真は有名だが、それとは反対にネルーは開発主義であり科学立国をめざした。英国は産業革命によって世界の覇者となった。そしてインドは300年間、それに隷属する憂き目にあったので、独立を機に、原子力技術を開発し、国家としての主権を得るという発想があるようにも思える。いわば国家としてのプライド、国づくり、国家統合として核開発が位置づくのである。技術国家主義では科学を非難することは、非国民となる。反原発運動において、首謀者は国家反逆罪となる。かつて英国によってガンジーは反逆罪にとわれたが、それは誇りであると語ったという。

 インドの原子力開発には、ホミ・バーバという人物が深く関与した。1948年に大統領直轄の原子力委員会が設立された。1955年にアイゼンハワーが国連で Atoms for Peace平和のための原子力という演説をした。その時の議長がバーバであった。

 最初の原発が建設されたタラプールの住民は立ちのきをした。40年前のことであった。しかし、現状をみてみると、人びとは貧相な家に住み、電気もなく、保障もなされていない。一方、技術者の宿舎は立派にみえる。以前は、人びとは漁業で生計をたてていたが、現在は、原発での危険な仕事を低賃金でしなければならなくなっている。ジャイプールで建設計画があるなかで、タラプールに行ってみて、人びとが仕事をうばわれ、被曝による病気にもかえりみず、原発で働き続けている現状を知るのである。

 現在、インドの原子力による発電量は4800W となっている。それを2020年までに倍にする計画があるという。2012月末、大停電が起こったように、電力需要の割が不足している。発電の約50パーセントが石炭で、原子力によるものは3パーセントにすぎない。それを2050年までに原子力によるものを2パーセントにするという。

 インドは米国の協力により1969年に原発を稼働させた。1974には、最初の核実験を行い、パキスタンとの緊張状態のなかで1998年にも実験を行い核武装に至った。NPT核拡散防止条約も批准していないので、原子力に関する供与は得られていなかった。しかし、米国はインドと2008年に米印原子力協力を結び、原発建設にのりだした。ただし、1984年、ボパールでの殺虫剤の有毒ガスにより5000人以上が死亡した米企業ユニオン・カーバイド社が起こした爆発事故での経験から、米国への不信は強い。このような外国企業に対する責任を問う、世界で唯一、原発の設備メーカーにも賠償責任が課される原子力賠償法ができている。

 クダンクラム原発の歴史は1988年にさかのぼる。ゴルバチョフとラジブ・ガンジーの合意によってはじまった。当初の反対運動、ソ連邦の崩壊もあり計画は停滞したが、2001年に再開された。2006年には聴聞会がひらかれたが形式的なものであった。2011年の福島第一発電所の事故、そして試運転の際の騒音は人びとは不安をもたらし、反対運動が盛んになった。数万人規模の抗議行動にたいして、警察は強行に弾圧し、活動家が死刑か終身刑かの国家反逆罪に問われている。また多くの人が強制連行された。交通もマヒし、子どもたちや学生らは学校に行って勉強できない日もあるという

 福島第一発電所事故にたいして、当初、インド原子力公社は、事故はなかったかのような見解をだしていたが、後には規制委員会がつくられた。その規制委員会が決めた17項目のうち、クダンクラムではみたしていないものが多い。

 司法への期待はあったが、日には、核開発は必要との判決がだされた。公共の利益が優先され、原子力はインドの発展には欠かせないとされた。阿倍首相とシン首相とが会談し、日本はインドへの原発輸出に向け、日印原子力協定の早期妥結をすすめることになった。

 インドの原子力および核開発は、軍事と一体であり、民衆の手の届かないところにある。地域の人びとは、魚とって暮らす生活を望んでいるので、誰のための原発なのか、すなわち開発のあり方が問われるのである。

 クダンクラムの子どもらの声も紹介されました。        

 (文責 淺川 和也)

参 考:http://www.dianuke.org/

    http://www.dianuke.org/indian-nuclear-facilities-live-google-map/

参考:

インド原発から見える国際政治(1)-(3)

( [特別投稿]竹内幸史氏/米ライシャワーセンター客員研究員)

http://www.tkfd.or.jp/eurasia/india/report.php?id=376

http://www.tkfd.or.jp/eurasia/india/report.php?id=387

http://www.tkfd.or.jp/eurasia/india/report.php?id=388